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最後の一日

出演:尾野真千子

文 :本谷有希子

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- 01

  • エレベーターは、いちばん右の三号機に乗ると決めている。
     会社を出て地下へ続く駅の階段も、右足から降りると決めている。
    いつもここと決めている改札を通って、
    ここと決めている場所に立って電車を待っているあいだ、
    私はまるで自分が隠れんぼの鬼にでもなったような気分だった。
     もしかして今夜から、世界中の人間が私から姿を隠すことにしたのかもしれない。
    ラッシュで満員のはずの電車にも、乗客はひとりもいなかった。
    私はここと決めているドア近くに立ったまま、ひとりぶんの夕飯の献立を考え、
    そして時々、窓に映る自分の顔をまじまじと眺めたりした。

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- 02

  •  最寄り駅に降りても、相変わらず私は鬼のままだった。
    無人のスーパーに入り、荒らされた棚からサラダ油をカゴに入れ、
    いつものレジにお金を置いて外に出ると、生ぬるい湿気が私を頭から飲み込んだ。
     夜空を見上げると、さっきまで極小のえんぴつの芯みたいだった惑星が、
    バスケットボールくらいの大きさになっている。
     惑星「メランコリア」。
     今夜異常接近するというその星に、誰かがそう名前をつけた。
     もしかするとそのまま衝突するのでは、としばらく前からあらゆるメディアが
    この惑星の話題で持ちきりだったけれど、
    騒いだからって軌道が変わるわけじゃないのにと、
    いちいち感情的になるひとたちのことが私にはうまく理解できなかった。
    今夜は誰もが世紀の瞬間を特等席で見ようとどこかへ出かけてしまったのか、
    地下へ潜ってしまったのか、大通りの交差点にも人影はなかった。
     豚肉の賞味期限が今日までだから、残った小松菜と炒めてしまおう。
    信号が青になるのを待ち、横断歩道をきっかり十二歩で渡り終えると、
    いつもの角を曲がる。心の片隅で、
    自分みたいな人間、生きていて何が楽しいのだろう、と思いながら。
     生ぬるい風が、少しずつ強くなっていた。

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- 03

  • つんのめりそうになって、はっと息をのんだ。
     ついにまっすぐ歩くこともできなくなり、
    私は風に背中を押されるようにしながら車道に出て、小走りに駆け出していた。
     重力が狂ったのか、体が浮いているように軽い。
    今まで出したこともないようなスピードで足が道路を蹴り続けるうち、
    このまま自分が四つ足の、一匹の動物に退化していくような気がし始め、
    鼓動が高鳴っていくのを感じた。
    今まで知らなかった新しい自分が生まれようとしている不思議な感覚に、
    私は混乱し、必死で何も考えまいとした。

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- 04

  •  気がつくと持っていたはずのバッグも履いていた靴も、どこかへ消えている。
    サラダ油の入ったエコバッグだけが、まるで最後の砦のように、
    しっかりと私の指に握りしめられていた。
    離すものか。私は足裏の固くて冷たいアスファルトの感触に
    どんどん高揚していく自分を抑え込もうと、歯を必死で食いしばった。
    いつだって、こうしてきた。感情を出すまいとにらめっこでもしているかのように
    眉間にしわを寄せ、どんな時もつまらなそうな顔をし続けてきた。
     だって、それが私という人間だと思っていたから。

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- 05

  •  今や、私は膨れ上がって破裂しそうなメランコリアと
    にらめっこをしているようなものだった。
    笑ったら負け。快感を、開放感を、覚えたら負け。
    走りながらメランコリアをぐっと睨みつけようとしたその時、
     後方にさらわれたサラダ油が、がちゃんとバッグのなかで勢いよく砕けたその瞬間
    ひときわ強い突風が吹いて、ついにエコバッグが私の指からするりと落ちた。

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- 06

  • 私のなかで数十年溜め続けていた、
    悲しみ、
    喜び、
    怒り、
    楽しみ、
    憤り、
    憧れ、
    寂しさ、
    もどかしさ、
    やりきれなさ、
    愛しさ、
    その他言葉にならない何百という感情が、
    毛穴という毛穴から一気に噴き出した。
    今まで私が私だと思っていたものはあとかたもなくなり、
    今や、感情が手足を生やし、
    服を着て全力で疾走しているものが、私 だった。
    私は、感情そのものだった。

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- 07

  • 声をあげて笑ってみる。
    風がざわめき、
    地面が揺れた。

    涙を流して怒ってみる。
    木々が薙ぎ倒れ、
    何百という鳥たちが一斉に飛び立った。

    今まで、誰とにらめっこをしていたのだろう。
    私は太古の昔からさまよっていた獣のように、
    メランコリアの光が降り注ぐ無人の街をどこまでも走り続ける。

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- 08

- Movie

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- 09

尾野真千子(おの・まちこ)
女優。1997年映画『萌の朱雀』で主演に抜擢される。『殯の森』『そして父になる』映画『いつまた、君と 〜何日君再来〜』(公開中)などの映画をはじめドラマの話題作にも多数出演。9月23日より映画『ナミヤ雑貨店の奇蹟』が公開。
http://namiya-movie.jp
本谷有希子(もとや・ゆきこ)
演出家・作家。2000年「劇団、本谷有希子」を旗揚げ、07年『遭難、』で鶴屋南北戯曲賞、09年『幸せ最高ありがとうマジで!』で岸田國士戯曲賞を受賞。小説家として『嵐のピクニック』で大江健三郎賞受賞、『自分を好きになる方法』で三島由紀夫賞、『異類婚姻譚』で芥川龍之介賞を受賞。作品多数。
http://www.motoyayukiko.com
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